グリム農園&田舎暮らし

定年退職後の日々の日記です。

3年ぶりの開催、十河戦国お城祭り

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 新型コロナ流行の為、開催が3年ぶりとなった十河戦国お城祭りが11月19日(前夜祭)、20日(本祭り)に開かれた。それでもコロナ感染の第8波が始まっており、イベントの内容が制限されている。楽しみにしていた獅子舞はなく、露店などによる食事の提供も取りやめられた。規模は第1回と比べ、拡大しているように思う。前回にはなかった前夜祭で、戦国時代に鬼十河として恐れられた武将「十河一存」の小説を書いた作家「三日木人」氏の講演会がコミュニティセンターであり、最大90名のところ、その7-8割程度が埋まっていた。講演での情報によると十河(そごう)という地名は古く、古墳時代からあるらしい。そして室町・戦国時代に東讃岐地方を治めていた十河家に子がなくて養子として、阿波(徳島)の三好四兄弟の末弟「一存」が入った。長兄の三好長慶は信長に先立って天下を治めようとした先進的な武将で鉄砲を合戦に初めて使ったのも長慶らしい。また、キリスト教を許容し、海外貿易も盛んにおこなったらしい。その末弟である一存は合戦中、矢で腕を貫かれても塩を刷り込んで、戦い続け、その勇猛なことで有名だった。当時は破傷風などでちょっとした傷でも簡単に死んでいたので、塩を刷り込んで消毒するしかなかったらしい。しかし、戦乱の中でこの鬼十河も30歳くらいで亡くなっている。私はこの十河地区に生まれ育ったが、小学生の頃、その境内で虫取りなどをしていた称念寺が十河城跡であり、見晴らしの良い高台にあり、高知の長曾我部と十河城で一大攻防があったことを知り、地元の歴史の深さに感動をしたものである。
 翌20日には武者行列から本祭りが開始され今回は会場であるJAの広い平坦な台地から出発し、十河城近くの十河家のお墓まで約2㎞程度を行進し、参拝して戻るというコースで秋晴れの中、50名ほどの鎧甲冑姿に加えて、数名の菅笠衣姿の若い女性も参加しており、華やかでほら貝の大きな音に近隣の人も眺めの良い場所に集まってきて楽しんでいた。朝9時から午後3時まで開催され、開催の挨拶には平井卓也衆議院議員や大西高松市長など政治家も駆けつけ、田園都市構想に触れて地域活性化を盛り上げようとしていた。肝心の武者行列は三隊が参加し、十河隊のほか、東かがわの隊や徳島の三好長慶の隊が応援参加している。特に三好隊は数も多く、徳島でも同様のお祭りを開催しており、装備が充実している。十河隊の隊長は実行委員長でこのお城祭りが地元の実行委員による手作りによるものであることを明かした。入場無料の開催のため、広告収入もなさそうで地元企業の名前もなく、音響設備はしっかりしているものの、舞台や控えのテント、駐車場、入場管理などボランティアで行われていることがうかがえるものであった。プログラムは高校書道部による書道パフォーマンス、徳島のダンススタジオによる創作ダンスで午前が終わり、午後は相撲甚句、阿波踊りとよさこい踊り対決、子供鉄砲隊、菓子投げ、ハイライトとして、最後に十河鉄砲隊演武、大筒発射で終えるという内容である。大筒は地元の鉄工所の手製だそうである。午前だけ、参加したが、書道パフォーマンスや創作ダンスも素人ながら、楽しみながらやっており、司会者が観客をうまく寛がせ、好感のもてる内容であった。お祭りであればやはり、露天が楽しみとなるがボトルや缶飲料のみで弁当・駄菓子や植木・野菜などの販売は一切なく、人集めに苦労したであろう。参加者は午前だけしか見ていないが千を超えていないと思う。この祭りがどうなっていくのかはわからないが、地元を愛する人達の手で郷土の歴史を伝えていってほしいと思う。

武者行列;十河城に近い今も細い尾根道を当時の鎧甲冑姿で行列する

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