子どもの頃、その塚に踏み入れることは禁じられていた。その塚は戦いで命を落とした人が葬られているという。その塚は今でも田んぼの中に小さな森となって存在している。トラクタで田を耕すとき、塚が邪魔になってうまく耕せない。一体、いつ頃の戦いだろうかと考えていたが、最近、讃岐の歴史を読んでいて、近くの十河城で大きな戦いがあったことを知った。高知の長曾我部元親に勢いがあり、四国全体にその勢力を伸ばして、当時、讃岐の東地域を治めていた十河一族に大軍で攻め入り、十河城を取り囲んだ。天正10年(1582年)の秋で秀吉の時代である。城主存保は他城へ脱出し、十河城は精鋭千人で籠城し、攻め手は3万6千人の大軍で取り囲んだ。鉄砲・大砲による銃撃戦、夜間の切込み隊など激しい戦いがあったが、落城せず、長期戦となる。存保の要請で秀吉の援軍が出されたが讃岐の東にある入野山の戦い(天正11年)で援軍が破れ、存保は仕方なく元親と城兵を無事に出すことを条件に十河城を開城したという。私の田んぼはその十河城から約1kmの距離にある。あくまでも想像であるがこの時の戦いで死んだ兵士の塚ではないかと考えている。このような辺地に兵士の墓が作られるような戦いの機会はそれほど多くはないだろう。田の作業をしながら、その塚の歴史に思いを馳せるこの頃である。
塚と十河城の戦い
2020年11月11日 | 0件のコメント